【クラスの感想】「イエス劇場」への抵抗が、「すでに運ばれている」という平安に変わるまで

私がナビゲーターを務めている勉強会に参加されている方の感想。体験談をシェアさせていただきます。 


 先日のテキストクラスでイエスの物語に触れたとき、私の中に凄まじいほどの拒絶反応が湧き上がりました。あまりに芝居がかった物語に思えて、「イエス劇場」などと毒づいては、冷めた視線を向けていたのです。しかし、その「激しい違和感」や「毒を吐きたくなるような不快感」こそが、実は自我の防衛が発動している証であり、聖霊(ホーリースピリット)が差し出してくれた次なる癒しへの招待状でした。 クラスが終わった後、静かに自分の心を見つめていく中で、私はなぜあんなにも攻撃的になっていたのか、そして何に対してこれほどまでに必死に抵抗していたのか、その正体を少しずつ紐解いていきました。 自我の防衛:宗教への恐怖と「死」の誤解 私の中にあったのは、宗教的な権威に対する「コントロール」や「洗脳」への根強い恐れでした。そしてその奥底には、十字架刑へと向かうイエスの姿に投影された、「真理を受け入れたら殺される(個としての自分が消される)」という凄まじい死への恐怖があったのです。 以前、進化論に例えたお話で「進化とは、海底の底へと沈んでいくプロセスだ」という話がありました。当時の私は、それを聞きながらも、心のどこかでこう信じていました。 「進化とは、海の表面から陸へとジャンプし、そのまま干からびて死ぬことだ」と。 「真理のために、個としての自分を犠牲にして、潔く死ななければならない」。 そんな悲壮な覚悟が、私の学びを「ドロドロとした、苦しいもの」に変えていたことに気づかされました。 2000年前の物語ではなく、今この瞬間のこと ずっと、ゴルゴダの丘の物語は2000年前の遠い出来事だと思っていました。なぜ今さら、そんな物語を聞く必要があるのかとさえ感じていたのです。 けれど、自分自身の心の動きをよくよく観察していくと、ある衝撃的な事実に突き当たりました。 **「私は、今まさに、この日常の中でゴルゴダの丘を歩いている最中なのだ」**ということです。 それは、聖書の中の聖人だけが通る特別な道でも、私たちがいつか「立派な学習者」になった後に迎えるドラマチックな覚悟の瞬間でもありません。目覚めを望み、コースを手に取ったその時から、私たちはすでに逃れようのないプロセスの中に立っています。 今この瞬間に感じる不安、学びに対する苛立ち、変化を拒む心――そのすべてが、ゴルゴダの丘を登る一歩一歩でした。あまりの恐怖に、道端の重い石にしがみつき、必死に現状維持を願って抵抗しながらも、私たちの魂の歩みは止まってはいません。自覚があろうとなかろうと、私たちは一歩ずつ、幻想が解ける場所へと確実に進んでいるのです。 抵抗していても、悶絶していても、私たちは運ばれている これまで、私にとって「十字架」は残酷な死の象徴でしかありませんでした。しかし今、それは「復活(目覚め)」へと至るための、抗いようのないプロセスの象徴へと書き換えられました。 「死を覚悟して潔く向かわなければならない」 「十字架を前にしても、常に平安でいなければならない」 そんな自分への厳しい裁きは、もう必要ありませんでした。 道端の石にかじりついて抵抗していようが、怖くて悶絶して転げ回っていようが、関係ありません。私たちはもう、神の愛という大きな流れの中にあり、目覚めへと「勝手に運ばれている」のです。 それを認めたとき、心から力が抜け、大きな受容と笑いが込み上げてきました。 こうした激しい抵抗感や「毒」すらも、聖霊の手にかかれば大切な癒しのプロセスの一部となります。 「こんなに抵抗してはいけない」「もっと穏やかでいなければ」と自分を律するのをやめ、必死に石にしがみついている無様な自分を、ただ微笑みをもって許せるようになりました。たとえどんなに足掻いていようとも、私は安全な流れの中にあり、目指すべきゴールへ必ずたどり着ける――。そんな、深い安堵と静かな解放感を味わえたクラスでのひとときでした。  

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